✻Rebirth✻

本音で生きる、ネコ科人間のblog。

社会の理不尽さ

まず、初めに穏やかな話を書きたい。

今日、自転車で出向いた昭和レトロなカフェに行ってきた。
ご年配の女性が一人でお店をされている。
店内は静かで音量小さくジャズが流れてた。
私は景色が見える特等席に座った。
なんかその特等席から見える窓際とその景色が、まるで亡くなった祖父母が暮らしていた一軒家から見える窓際とそこからの景色に似ていて、懐かしく感じてしまった。
感動してしまい、頼んだメニューの写真を普段なら撮るのにその動作を忘れてた。
私の後に、私と同じ年代位の女性が一人で来店して「こんにちは~」とあいさつをしている。常連さんだろうか。
ご年配の女性の方が親切に話しかけている。少しプライベートな話のようだ。
令和のこの時代ではかなり珍しい光景で切なさを感じた。
店員さんが私が頼んだケーキにスプーンを付けていたが、あとで「フォークついていなかったわね、遅かった?」と愛嬌ある笑顔で聞いてきた。
ケーキが美味しくてかなり食べ進めていたため、「あ、もう、大丈夫ですww」と答えたが、「とりあえず置いとくわね、とりあえず」と素敵な笑顔で仰った。神様みたいだった。
その店員さんが素晴らしすぎて、「その方独自の世界観をカフェそのものに託しているんだろう」「穏やかな人だな、こんな年の取り方をしたいな」と思わせてくれる一瞬だった。
もちろん、カフェなのでコーヒーも美味しい。
ホットであれば、もっとコクを感じられるんだろうけど暑かったのでアイスで頼んでしまった。それでも本当美味しい。
今度はホットで頼むためにまた訪れようと思った。行って良かったと思えるカフェでした。

*****
今日は社会の理不尽さについて発信しようと思う。

今の社会って
「できていないこと」に目を向けて、不足を埋めるように改めて教育しなおすのか?
「できていること」に目を向けて、長所を引き延ばして新たな可能性を開拓するのか?
どちらなんだろうね。あきらかに前者だよね。
そもそも「できていないこと」が生じる理由として、その人が勤めている会社ではその人自身のパフォーマンスが発揮できないんだと思う、すなわちその仕事は向いていない。
でも「できていること」もあるんだとしたら、そちらに注目したりはしないのかな。
会社での方針として、従業員全て"A"いうやり方でなくてはいけないというルールがあるとして、それ以外のルールを作ろうとしたり、"A"というルールを破ろうとしたりする人は協調性が無いとしてクビになるんだろうね。
日本だろうが海外だろうがその辺のルールはきっと変わらないと思う。
本当に生きづらい。

また、上司の性格によっては自由そうにしてキラキラしている人は潰す、叩く傾向がある。
頭ごなしに怒鳴るではなく、少しでも上司自身の仕事の仕方と合わない、または協調性が無さ過ぎるとみられる部下に対しては躊躇なく成績を盾に追い詰めたり、
上司自身の都合の悪いことは棚に上げておいて、部下の悪い点のみを指摘する。
それってどうなんだろうか。
その上司も上からの命令で部下の成績を正すために指示をされてはいるんだろうけど、
そもそも論、上司と部下の反りが合わないということがある。
そして、その上司もきっと仕事やプライベートで満たされてなくて自分を責めていることもあるんだろうとも思い、憐みの目で見てしまう。

今の世の中、大半の企業が協調性を重視することを大事にしているんだろうけど、
個性を大事にしない=多様性を無視するということは、うがったものの見方しか出来ていない頭の固い管理職がなんと多いんだろうと呆れてしまう。
特に日本は同調圧力が強すぎる人種だから、個性は殺して生きていかないといけない。
無理に個性を出そうとする人は釘なので、打たれてしまう。

この世の中で生きている人すべて本来は時間の使い方や仕事の仕方は自由なはずなのに、
仕事をしなければ収入を得られない仕組みになっていて、
仕事こそ人生そのものという捉え方をしている人があまりにも多いと思う。
そのため、仕事で成績が落ちて怒られた、詰められた場合に自己肯定感の低い人は「私はなんてダメな人間なんだ…」と自分自身をダメ人間と認識してしまう。
それってその人がダメ人間ではなく、仮にその会社のルールが間違っていたとしても、それに従わないといけない!と決めつけた管理職がダメだし、ルール自体も洗脳的であるためダメであると思う。
何も自分自身の人格まで否定しなくても…と思ってしまう。

私個人の意見だけど、人として重要なのは、
仕事がどれだけ早くできるか、または正確にこなせるか
どれだけ会社に貢献できているか、優秀な成績を残せているか
または、どれだけ親として子供の教育が出来ているか
ではなくて!
例えば花を見て「綺麗~♡」と思える感性だったり
空を見て爽快感を得たり
困った人を見て寄り添うことが出来たり
災害が起きた時には何か出来ることはないか?と考えたり
音楽を聴いて感動したり
そういったことの方が数百倍、数万倍必要だと思う。

ホームレスの方を見て「自分には関係ない」と思っている、会社では優秀な成績を収めて収入が安定している管理職の方や
災害が起こったときにも「自分は無事でよかった」「ほかの地域のことなんて、自分に直接害が無いから関係ない」と思って何もしない、生活には困っていない裕福な方々…
なんて腐るほどいると思う。
生活に困窮しないために災害に遭っても自分だけは困らないように対策をしない方が悪い、自業自得と思う人も結構いるかも知れない。
教育の環境が経済的な理由や情勢的な理由で整わなかったりするから、当事者には責任は無いし、
災害に対する事前の備えについてもある程度余裕が無いと出来ないこと。
いつ自分の身に降りかかるか分からないのに、困っている人を見て見ぬふりをすることが多すぎるよね。
まるで同じ場の空気を吸ってはいけないかのような、またはその困った人が思いやりのない人にとってはこの世に存在しないかのような認識なんだろう。

どんな人種であってもどんなに価値観の違いがあっても、無視をすることや逆に殺し合うことが正しいとは決して思えない。
自分の思い通りにならない人間を排除しようとする風潮をやめていかなければいけないんじゃないかと思う。
そのためにミジンコ並みの存在である私個人が何が出来るんだろうか、常に考えている。